西日本新聞 聞き書きシリーズ 「ちゃんと、ごはん」 家庭をつくる

西日本新聞(2013.04.01~) より転載


 22.啓助さんと出会う (4/26掲載)
就職が内定していた大学4年の冬、思いがけない出会いがありました。七つ年上の村上啓助さん。高松市の出身で東京大法学部を卒業後、1957年に八幡製鉄(現新日鉄住金)に入社していました。当時鉄鋼業は戦後復興と高度経済成長の核となる「夢の産業」で、全国から人材が集まっていたのです。
出会いは「啓助さんが駅で向かいのホームに立っている私を見かけたのが最初」ということになっていますが、実は製鉄所の姉御肌の女子社員(大庭哲子さんと森敏子さん)が、啓助さんが30歳までに結婚する・しないのかけをしたのです。大庭さんたちは「する」、啓助さんは「しない」にかけました。大庭さんたちは私の両親のお店「大島画材店」の常連でもあり、啓助さんを売り込みに来たのが本当のところでした。
出会ってから4カ月後、私の在学中に婚約しました。啓助さんは私の情報をさまざま入手していたようです。「気立てが良く礼儀正しくて、それでいて家のことは何でもできる」との評もあれば、「おとなしそうに見えるけど、勝ち気で行動的。気を付けないと」の忠告も。「祥子と結婚すると得ですよ。まず料理が上手、それに家事は何でもできますから」とは私の母の談です。
私はコンピューター会社NCRに就職が内定していましたが、啓助さんは「家庭と仕事の両立は難しい」と言います。「君の研修に会社は300万円は投資するだろう。途中で両立ができませんと辞めては会社に面目が立たない」と熱心に説得するのです。私は「えいっ、面倒だ」と永久就職を選ぶことにして会社に辞退願を出しました。入社直前の3月になっていました。18年後にNCRの方にお会いした際、このときのドタバタを「あなたですね! 会社では今でも語り草ですよ」と言われてしまいました。
卒業の翌月の1964年4月、小倉のホテルで結婚式を挙げました。東京五輪の年でした。私は22歳。29歳の啓助さんは当時としては晩婚の方で、製鉄所の同期の方からこんな祝電も届きました。「長期在庫品お買い上げのお客さまには特大を差し上げます」。啓助さんは身長181㌢とかなり長身なのです。プロポーズの言葉を紹介していませんでした。「オリンピックのチケットがあるのだけど、一緒に行きませんか」 

 

 23.円谷選手の遺書 (4/27掲載)
私と啓助さんが結婚したのは1964年、東京オリンピックが開催された年でした。「オリンピック、一緒に行きませんか」。プロポーズでもあったその言葉通り、私たちは開通したばかりの新幹線にも乗って新築の国立競技場に向かいました。
10月21日、男子マラソンを義父や義妹と一緒に観戦しました。八幡製鉄陸上部の君原健二選手も出場しました。以前、君原選手と同じ職場だった啓助さんは応援に熱が入ります。選手たちは満員の競技場をスタート。甲州街道を走り、圧倒的な速さでエチオピアのアベベ選手が競技場に最初に帰ってきました。次は誰だろう。観客注視のなか、円谷幸吉選手が走り込んできました。しかし、ゴール直前で英国のヒートリー選手に追い抜かれます。競技場は悲鳴にも近い声援に包まれました。円谷選手は3位となり、よろめくように芝生に倒れ込みました。
日本に銅メダルをもたらした円谷選手は国民的英雄になりましたが、その後は不遇に見舞われ27歳で自ら命を絶ちました。遺書は今も語り継がれています。
《父上様母上様 三日とろゝ美味しうございました。/干し柿もちも美味しうございました。/敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。/勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。/巌兄姉上様 しそめし、南ばんづけ美味しうございました。(中略)/父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい…》(表現は原文のまま)
円谷選手が亡くなったのは68年の1月9日。「三日とろゝ(とろろ)」は彼の古里福島で正月三日に食べる郷土食で、遺書に並んだ食べ物の数々から愛情に満ちた実家の正月風景が浮かびます。「おいしゅうございました」という言葉は食べ物に込められた家族の温かさへの、心いっぱいの感謝なのでしょう。作家の川端康成は「円谷幸吉の遺書」という一文を発表し「繰り返される《おいしゅうございました》といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる」と語っています。高度成長のただ中で、そうした日本の食卓の風景は様変わりしていきます。このころインスタント食品や栄養ドリンクも登場しました。豊かさとは何か、心と経済の交差点でもありました。

 

 24.穏やかさのルーツ (4/29掲載)
啓助さんの実家は四国の高松市です。最初に行ったのは新婚旅行のとき。亡き姑(しゅうとめ)の七回忌を兼ねていました。長崎と雲仙を旅行したその足で大分の別府港へ行き、船で高松港に渡りました。港に入ると、迎えに来てくれた義父が、おそろいで仕立てた茶色のブレザーを着た私たちをデッキに見つけたようです。手を振ってくれているすらりと背の高い姿が船上から見えました。
村上家は源平合戦の古戦場である屋島にあり、平家物語の「扇の的」の舞台になったところです。源義経の命で、弓の名手の那須与一が平家軍が立てた扇を射貫く場面は大変有名ですね。戦いは、屋島半島と庵治半島に挟まれた深い入り江で繰り広げられたといいます。屋島の一帯は製塩業が盛んで、村上家もこれを家業としていました。
家には家族や親戚が集まり、関西の方言に近い讃岐弁が飛び交っていました。私は初対面の人に囲まれて心細く、座敷に座って蚊に刺されたところをさすっていました。すると、啓助さんの祖母のコメさんが「これを着んまーせ」とたんすから何やら取り出してきました。亡き姑が編んだというセーターです。「せっかく流行の服をきているのに…」なんて思いましたが、その優しさにだんだん緊張が解けていきました。
姑さんは啓助さんが23歳のとき亡くなり、コメさんが一家の台所を仕切っていました。最初、私は〝お客さん〟でしたが、次からは一家の一員として迎え入れられました。コメさんと一緒に食事の支度をします。裏山で採ってきたハチクのタケノコは皮をむいて薄切りにし、井戸水を張ったたらいの中に放ちます。これをごま油で炒め、わずかに肉を入れて煎り煮にします。シャキシャキした歯ごたえと、素朴なうま味が印象的でした。
土地で採れた旬の食材を、素材の味と食感を生かしてシンプルに調理する。こんな食事が夫をつくったのかと思います。啓助さんはめったなことでは怒りません。穏やかな人で、食事のときも淡々としたマナーで、しかも何でもおいしそうに食べます。夕飯を準備する祖母の姿に、啓助さんのルーツを見た思いでした。「小柄で働き者、そしてちょっと気難しい」。そういうところが、コメさんと私はよく似ているそうです。

 

 25.新婚さんいいわね (4/30掲載)
「新緑もえる陽春の候、私達は結婚いたしました。今、野山を緑に彩る木々の若い芽のように、私達は将来立派な緑樹に成長して、疲れた旅人には涼しい木陰を与え、渇いた子ども達にはその果を恵み、およばずながらも社会に尽くすよう努力してゆきたいと思っております。昭和39年5月 桃園アパート北2 村上啓助 祥子」。こんなあいさつ状を各方面へ送り、結婚生活が始まりました。私、「大島祥子」から「村上祥子」になったのだな…。今ではすっかりなじんだ名前ですが、当時は何だか面はゆかったものです。
八幡製鉄所の周辺一帯には社員向けの社宅が広がっていました。私たちの「桃園アパート」は1950年に建てられた鉄筋4~5階建ての社宅で、約6千人が生活していました。偶然出た空き室に運良く入れたほどで、まさに人間のエネルギーの塊のようなところ。すぐそばに桃園球場があり、製鉄所の野球チームが練習していました。各部課にチームがあり、優秀な選手は「オール」と呼ばれた選抜チームに入ったそうです。オールと門司鉄道管理局との対抗戦「製門戦」は恒例行事の一つでした。ちなみに夫の啓助さんはテニスのオール選手。練習に、後輩指導(宴会含む)に汗を流していました。
通退勤時間には、社宅から工場までの道に人の波ができました。工場は24時間不眠不休で、現場勤務の3交代(午前6時、午後2時、午後10時出勤)と、事務・技術系の常昼勤(午前8時出勤)の通退勤時間には砂利道がザッザッと鳴り響いてチャプリンの映画「モダン・タイムス」の世界そのものです。当時、製鉄所に勤務していた人は直営と請負を合わせて約6万人。寮や社宅が次々に建設されましたが、追い付かないほどでした。独身寮は6畳間に2人ずつ。皿倉山の山裾の家々は、間貸し用の部屋を立て増して製鉄所の社員に貸したりしていました。
職場の連帯感の延長で、社宅の人間関係も濃厚でした。桃園アパートには新婚夫婦は珍しく、多くが一定の勤務年数を経た?代以上の家庭でした。啓助さんと手をつないで歩いていようものなら、窓から「あーら新婚さんはいいわね」。アパートに風呂はなく、銭湯通い。アイスキャンデーを頬張り、げたをカランコロンと鳴らしながら家路に就いていました。

 

 26.「天の虹」の下で (5/1掲載)
八幡製鉄の社宅・桃園アパートは大きな生活共同体で、何事も助け合う習慣がありました。初めはよく知らず、苦言を言われたこともあります。オリンピック観戦に出かけて家を留守にしていたとき、向かいの家のご主人が亡くなっていて、「通夜のときには向かいの家を控室にするものなのに、出かけるなら鍵を預けていくものよ」と叱られました。
奥さんたちの結束は固く、朝早くにドンドンと玄関のドアがたたかれ、「階段の掃除よ!」と招集がかかります。総出で一番上から水を流し、デッキブラシで階段をこすりあげるのです。これには鍛えられましたね。今でもベランダ掃除のデッキブラシ使いには自信がありますから。そのころはベランダはなかったものの、階段という階段に赤や黒の細かなちりがたまっていました。それは八幡の日常風景だったのです。
桃園アパートから製鉄所までは徒歩5~10分で、工場の煙突はすぐ目の前です。煙が吐き出されると、空は赤や黒に染まります。〈天をもつんざく高炉の焔(ほのお)、空に漲(みなぎ)る七色の煙!東洋最大の八幡製鉄所を背景に働く人々の夢と希望、喜びと悲しみを感動のメガフォンで描く本年最高の珠玉編!〉。八幡製鉄所を舞台にした1958年の松竹映画「この天の虹」の宣伝文句ですが、威勢がいいですね。工場から立ち上るいろんな色の煙を「天の虹」と形容して、人間の夢と活力を重ね合わせたようです。
夫の啓助さんの解説によると、鉄の原料・鉄鉱石の成分は酸化鉄と泥。これを溶鉱炉に入れ、炭素を主成分とするコークスと溶かすことで鉱石中の酸素を取り、溶けた銑鉄を作ります。桃園アパートは、銑鉄からさらに炭素を取り除き鋼に加工する製鋼工場がすぐ近くにあり、酸化鉄を含んだ赤い煙がもくもくと上がっていました。黒い煙は炭素のばい煙、白い煙は水蒸気だったそうです。
工場の煙、映画で言うなら「天の虹」の下での暮らしは大変でした。煙突からは日夜煙が立ち上り、洗濯物はもちろん、部屋の中もすすだらけ。夏には開いたシャツの胸元にもたまってしまい、汗でくっついて困りました。その後、技術の進歩でばい煙はなくなりましたが、あのころは生産拡大の証しのように八幡のまちを覆っていました。

 

 27.ふわとろオムレツ (5/2掲載)
外資系会社の内定を辞退し、「永久就職!」と主婦を選んだ私でしたが、夫の啓助さんは妹の学費を負担していて蓄えがありませんでした。妹思いには感心ですが、せめて雑誌ぐらいは自分で買いたいと働きに出ることにしました。でも新卒でないと働き口はなく、学生時代の家庭教師を再開することに。デパートの手編みジャケットの下請けもしましたが、あまりの下手さにクビになってしまいました。
ピアノも教えようと、カワイ音楽教室の講師の試験を受けました。面接はパスしましたが、実技試験は熊本とのこと。「夫を会社に送り出してから行きます。遅れてもいいですか」とお願いし、無事採用されました。私が働くことに反対していた啓助さんには内緒でした。北九州市の八幡の各地(荒生田、本城、清田町など)にあったオルガン教室で教え、幼稚園から小学校低学年までの子どもを一度に10~15人、週3日教えました。黒崎にあった本部のピアノ教室は月1回で、12人の生徒さんを個人レッスンします。そのころバスの中で高校時代の恩師、大六野先生とばったり再会し、ご子息2人にもピアノを教えることになりました。
外の空気を存分に吸って家に戻ると、張り切って食事作りです。新しく購入した電気冷蔵庫は「アイスクリームがストックできます」がうたい文句で、製氷室が付いていました。実家では長い間、内部がブリキ張りの木製冷蔵庫で、毎朝配達される角氷を入れていました。夜になると下のバットにたまった水を捨てていましたね。食品は今ほどに商品化が進んでいませんでした。マヨネーズも手作りで、ある夏の夜に啓助さんの帰りを待ちながら出窓に腰かけてマヨネーズを作っていたら、勢い余って泡立て器がポーンと窓の外に。闇の中、懐中電灯をもって崖のような斜面の下まで捜しに行きました。
啓助さんに「ホテルの朝食に出るようなオムレツが食べたい」と言われ、試作を続けたのもいい経験でした。「もっとふわっと、とろりとしているんだ」という言葉に何度もトライし、今では得意メニューのひとつです。夕食に天ぷらを作ったとき、揚げたてを次々に運んで持って行くと「少し冷めてもいいから一緒に座って食べよう」と言われたこともあり、食卓の意味を考え直しましたね。

 

 28.家計簿は生活記録 (5/3掲載)
結婚した翌月から、家計簿を付け始めました。仲人さんから「最小限の蓄えは必要ですよ。目安として2人の年齢の合計に万を付けた金額があればいいでしょう」と言われました。30歳の啓助さんと22歳の私で52万円、次の年は54万円と、毎年2万円ずつ増やしていくことになり、当時の年収の半分に迫る額になる計算です。これは、大変な金額だと思いました。
1964年5月の啓助さんの月給は3万5700円。「男子いったん家を出れば何が起こるかもしれないから、1万円は財布に入れておいてほしい。無駄遣いはしないから」と言われましたが、即座に断りました。その代わり「財布はあなたが預かってください。私が生活費として1万円もらいます。無駄遣いはいたしません」と宣言しました。
1万円から食費やクリーニング代、光熱費をまかなうことになりました。母が生活雑誌「婦人之友」の愛読者で読者の集い「全国友の会」の熱心な会員でもあり、主宰の羽仁もと子さんが提唱する家計簿を実践していました。友の会では「家計簿は家庭の基本」と考え、米など主食費、おかず類の副食費、調味料費などと細かく分け、予算ありきの生活を心掛けるのです。私も母に倣い、自分なりの家計簿を作ることにしました。大判の大学ノート見開き2ページが1カ月分で、1日1行、横に使います。1冊80ページあるので、12で割ると3年以上使うことができました。細字のボールペンを使い、分かりやすく丁寧に書き込んでいきました。
計画的に物を購入する予算生活に一時熱中しましたが、スケジュールがきっちり立てられた旅行のようで、細かな計算が私には合わないとたちまち悟ります。まずはとにかく必要経費は1万円以内に抑えることを心掛け、毎日必ず記録して月末に啓助さんへ報告します。年度末の3月に、家計簿の記録をもとに〝ベースアップ要求〟となりました。 66年1月、長男が誕生しました。この月の家計簿を見ると「入院費2万2623円、看護婦さんお礼600円、おくるみ2000円、コルセット2000円、赤ちゃん用衣類1300円…」などとなっています。お金の動きは日記代わりにもなり、以後欠かさず続けています。

 

 29.離乳食に悩む (5/4掲載)
長男が誕生したのは1966年のお正月でした。北九州・八幡の実家で、おせち料理を囲んだ日の夜中に産気づいたのです。長男が1歳になったころ、夫の啓助さんが東京本社に転勤になりました。啓助さんは先に出発し、私と長男は夜行列車に乗って東京へ。おなかの中には次の子どもがいました。
東京・杉並の社宅は1棟の小規模なアパートでしたが、同年代の家族が住み子どもたちの声があふれていました。3カ月後に娘の亮子が生まれ、退院の日はアパートの奥さんたちが総出で迎えてくれました。内祝いにはシュークリームを作りました。毎日、シュー(皮の部分)を焼いて冷凍ストック。最後に解凍してクリームを詰め、箱に入れてリボンを結びお届けします。
私は娘の誕生がうれしくて、ピンクと白の糸でスモッキング(布に細かいひだを寄せる裁縫の技法)したワンピースを縫ったりと大変な張り切りようでした。ところが亮子は離乳食の時期になってもほとんど食べてくれませんでした。一生懸命食事を作るほど、私は追い詰められていきました。発育の様子も長男と比べてしまいます。母乳の出も良くなくて自分を責めてしまい、ついに愛育病院(東京都港区)を受診すると「この子は健康体です。お母さんの方が心配です。お嬢さんを預かりましょう」と言われ、1歳の亮子は入院することになりました。1週間後にそっと見に行くと、亮子は普通に病院のごはんを食べているのです。たくさん食べさせようと母親の私が期待し過ぎだったのです。初めて体験した食をめぐるストレスでした。
娘の入院中に長男と八幡に里帰りし、気持ちがほぐれていきました。1カ月後に亮子は退院し、その後は亮子のペースで食事に付き合うように。離乳食も発育も外からの情報はあくまで一般例で、自分の子に当てはまらなくても気をもむことはないのです。それでも、相談する人がいなくて追いつめられていく母親の心境…。この経験が後に親子への食育教室「ミニシェフクラブ」を開くきっかけになりました。娘が生まれたころは苦難の時でもありました。母、正子が闘病生活を送っていたのです。 

 

 30.母さん命永らえて (5/8掲載)
母正子は40代の終わりごろから顔色が優れないようになりました。検査すると膵臓(すいぞう)がんだと分かり、胃にも転移しました。夫の転勤で東京に住んでいた私は、まだ小さな子どもを連れて北九州・八幡の実家に帰り、看病に明け暮れました。毎日希望のメニューを持参すると、母は不思議と体調が上向いたのです。
病床の母は、若いころ東京で食べたおいしい物の話を尽きることなく語りました。ローマイヤ(銀座のドイツレストラン。大正時代に日本初のロースハムを製造)のコーンドタンやレバーのパテ、ピクルスなど味を詳細に覚えていて、私は必死でメモに残します。「何が食べたい?」と聞くと、初めは料亭などのぜいたくな食事を恋しがった母でしたが、次第に「祥子が作る料理を食べたい」と言うようになりました。「あの昆布とカツオのだしに浮かべたワンタンスープが食べたい」と言われ、病棟の湯沸かしで温めて届けたり。
そのうち「あなたのバニラアイスが食べたいわ」と懐かしがるようになりました。私が中学生のころに「暮しの手帖」を見て作ったアイスクリームです。バニラビーンズで甘い香りをつける素朴な手作りの味でした。この味を再現し、魔法ビンに入れてビンごとしっかり凍らせて母の病室まで持って行きました。「どうか、とけないで…」と祈りながら。
母はひとさじすくって食べ「おいしい」とほほ笑んでくれました。それ以上食べる力は残っていません。あのひとさじのアイスクリームがまた何日か命を延ばしてくれたと信じています。病の床で何よりのぜいたくは、食べたいものが目の前にあることではないでしょうか。少量しか食べられなくても、思いのこもった味は気力をよみがえらせてくれます。
1967年9月、53歳の生涯を閉じた母は時代に先駆けた女性でした。意志が強く世間の習慣にとらわれない自由な考えの持ち主で、私の好奇心をいつも伸ばしてくれました。「チャンスの神様は前髪しかないのよ」と話し、「常に理想を高く持ち、チャンス到来となれば、すぐにつかみなさい」と背中を押してくれました。そして女性も仕事をして自立すべきだということ、食べることは生命をつなぐことだという信念を、母は人生をもって示してくれました。大好きな母でした。

 

 31.舶来の料理百科 (5/8掲載)
私の本棚に大切な一冊があります。表紙に「CULINARY ARTS INSTITUTE encyclopedic COOK BOOK」と書かれたアメリカの料理百科事典。40年以上も前の本でずいぶん古くなりましたが、私の原点の一つです。
1968年の暮れのこと。東京・杉並の社宅アパートでおせち作りに精を出していたら、夫の啓助さんが「実はね」と話しだしました。会社の後輩の望月輝一さんが「今年のおせちもハムの塊や、ハチミツを塗って焼いたローストチキンかな」とぼやいていたそうなのです。望月さんはアメリカでMBA(経営学修士)を取得した人で、留学中に妻のアンさんと出会って結婚し、一緒に帰国していました。愛する妻の手料理でも生粋の江戸っ子である輝一さんは日本のおせちが恋しかったのでしょう。啓助さんは「それなら、うちのかみさんが山ほど作るから一緒にお祝いしよう」と勝手に引き受けてきたのです。
私はどうせわが家の分を作るならと望月さん家族と新婚の義妹夫婦、どちらも1人暮らしだった父と舅(しゅうと)の都合5軒分のおせちを作りました。黒豆や数の子、ごまめは一段目の重に。きんとんや塩焼きのタイなどを二の重、三の重には紅白のかまぼこ、四の重には昆布巻き、なますは五の重…などと続けてお正月祝いの完成です。望月さん夫婦は大みそかの夜に、米国流にワインを提げてわが家を訪ねて来ました。
まだお互い20代。アンさんと私は親友になりました。中野坂上の社宅に移ると向かいの棟になり、私は階段を駆け下りて、また駆け上がってアンさんに卵焼きや麦とろなど日本の家庭料理を届けます。アンさんは「輝一がすごく喜んだので、誕生日に私が作ってあげたい。教えてほしい」と興味津々でした。
そうしたある日、紹介されたのが冒頭の料理百科事典です。「アメリカでは大学に入ると自活する若者が多いの。その時に準備する本で、家庭料理からフォーマルまで何でも載っているのよ」と。編者である「カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ」は、アメリカを代表する料理学校とのこと。私は早速、紀伊国屋書店に行って注文し、船便で取り寄せてもらいました。

 

 32.チーズケーキ研究 (5/9掲載)
夫の後輩、望月輝一さんの妻アンさんに米国の料理百科事典を紹介され早速購入しました。「百科」の名の通りテーブルセッティングから肉、卵、サラダ、デザート、弁当などあらゆる料理が整然と分類され、私は辞書を片手に夢中で読み進めました。アンさんの「あなたならきっと上手に作ると思うから、トライして教えてほしい」というリクエスト付きで、中でも「チーズケーキが恋しい」と言うのです。ニューヨーカーにとってチーズケーキは日本人のようかんのようなもの。東京五輪から数年たったころですが「東京にはどこにも売っていない」と嘆きます。
まずは2人でアンさんのポンコツ車に乗って、東京・青山の輸入食材店「紀ノ国屋」まで買い出しです。車の前を人が横切ると、アンさんは「なにやってんだよう」と怒鳴って、びっくり。慌てて「それは男の人の言葉よ」と教えます。江戸っ子の夫輝一さんから覚えた日本語ですから、べらんめえ調になるのです。そのころ赤ちゃんだったアンさんのご長男は今や数学の難題「ABC予想」の解明で注目される望月新一京都大教授なんですよ。さて紀ノ国屋に着くと、グラハムクラッカーやクリームチーズ、生クリーム、アイリッシュミストなど私にとってまだ目新しかった食材を一つずつ彼女の説明つきで購入していきました。今では当たり前になりましたが、客が自分で商品を選びレジで精算する方式や買い物カートの導入は紀ノ国屋が先駆けだったそうです。
一口にチーズケーキと言ってもベイクド、スフレ、レアなど形態はさまざま。チーズもフレッシュからカマンベールなどのカビタイプ、ウオッシュ、ハードなど無数にあります。試作してはアンさんやその友人、日本を訪れたアンさんのご両親にも試食をしてもらいました。
1973年でしたか、日系3世のマーティーが私のケーキを食べながら言いました。「青山にアンナミラーズのチーズケーキ屋さんができたのよ。アメリカ本店に負けない味なの」と大推薦です。私は早速食べてみて、うなってしまいました。日本ではようかんやアイスクリーム「あずきバー」で有名な井村屋製菓(現・井村屋グループ)が米国のレストランチェーン「アンナミラーズ」とライセンス契約を結んだことを知ったのです。

 

 33.秘伝の味を再現 (5/10掲載)
「私のチーズケーキ、見てもらえませんか」。1973年、日本に上陸した米国のレストランチェーン「アンナミラーズ」に電話すると、「持っていらっしゃい」とのお返事。事務所に行くと丁寧に解説してくれました。「家庭用オーブンで焼くため均等に熱が入っていませんね。私たちは業務用オーブンの中で回転させるので均質に焼き上がるのです。日本のサワークリームは酸味が足りないのでクエン酸を足しています」。私は家に飛んで帰り、再挑戦です。
東京・六本木のユダヤ料理店「コーシャ」のチーズケーキも絶品と評判でした。ヘビ柄のストッキングをはいて星占いに凝っていたマダムが全てを仕切っていました。クリームチーズとサワークリーム、クラスト(クッキー生地)の3層が絡み合う絶妙な味でしたが、その後マダムは誰にもレシピを伝えないまま天国へ召されてしまいます。私はこれを再現しようと研究を重ね、レシピに起こしてみました。直径19センチ、高さ5センチの容器1個分のレシピです。
まずクラストから。フードプロセッサーでグラハムクラッカー80グラムを粉末状にし、シナモン小さじ1、ナツメグ小さじ4分の1、砂糖大さじ2、加塩バター40グラムを混ぜ、さらに回して容器にふわっと敷き詰めます。この上にクリームチーズの層を重ねます。クリームチーズ200グラムはハンドミキサー低速でクリーム状に。混ぜながら砂糖60グラム、塩ひとつまみ、バニラエッセンス小さじ2分の1を加え、次に溶き卵2個分を2回に分けて加え、最後に生クリーム1カップを入れて練乳ほどのとろみにします。この過程も木べらや泡立て器、ミキサーと試して「ハンドミキサー低速」に行き着いたのです。
これを160度のオーブンの天板に置き、天板に熱湯を1センチ注ぎ1時間蒸し焼きに。湯が無くなれば足します。取り出して室温で冷ましふくらみが落ち着いたらサワークリーム1カップと砂糖大さじ3、バニラエッセンス2分の1を合わせてケーキの上に流し、200度のオーブン上段で約10秒焼きます。冷蔵庫で一晩冷やし温めたスプーンで取り分けると、「これよ!」とアメリカ人もお墨付きの味に。気の遠くなるような作業でしたが、舌の記憶を信じて身近な道具と食材を使って秘伝の味に迫るのは、新たな味を生み出すのとはまた違う喜びがあります。

 

 34.目分量は「NO」 (5/11掲載)
腕を上げれば、自慢したくなるのが人の常。日本の家庭料理に熟達してきたアメリカ人のアンさんが、日本人と結婚した外国人妻たちの集まりで話をしたから、たまりません。「夫の輝一の誕生日に甘い厚焼き卵を作って驚かせたのよ。同じアパートの奥さんに習ったの」と話すと、皆が口々に「料理学校に行っても西洋風の料理ばかり。日本の家庭料理が習いたいわ」「夫が白菜の漬物が食べたいと言っているの」…と興味を示したそうです。夫たちは日本の家庭の味に飢えていたようで、「ぜひ彼女に料理教室をやってもらいましょう」とその場で決定。社宅のわが家で外国人妻12人の料理教室を始めることになりました。米国のほかオーストラリア、ドイツから来た人もいて、国際色豊かでした。
1969年9月から約1年間、週に1度教室を開きました。材料費込みで1回500円。最初に夫のみなさんに「何を作ってもらいたいですか?」とアンケート用紙を配り、事前調査。回答は「おにぎり、みそ汁、サバのみそ煮」など典型的な日本食でした。「米のとぎ方を習ってほしい」とか、「きゅうりのキューちゃんが食べたい」という答えもありましたね。「きゅうりのキューちゃん」は既製品の漬物として62年に発売され、大ヒットしていたのです。
英語でレシピを作り、分かりやすいよう料理の挿絵も添えて、コピー店に行って印刷しました。「ともかく声が大きい方が勝ちなんだから」と張り切って教えていましたが、「ちょっと待って、その英語はこの言い回しで」とか「もっと簡単に一言で説明したほうがよい!」など容赦ない指摘が飛び交い、散々です。料理の英語は実はシンプルで、難しく考えない方がいいのです。とにかく耳から聞いて学んでいきました。言葉は、共通のたたき台になる事柄があると(ここでは日本の家庭料理)みるみる上達していきますよね。始めた当初は、頭上を12人の早口英語が飛び越えていく感じでした。
合理的に説明しないと外国人の生徒さんたちは納得しないので、きっちり量ってレシピを起こす力がつきました。日本には「少々」「ひとつまみ」、「あんばい」といった大まかな計量や調理の言葉がありますが、初めて日本料理を習う外国人には曖昧な分量の感覚は通用しなかったのです。

 

 35.辻嘉一氏のみそ汁 (5/13掲載)
外国人女性に日本料理を教え始めた私。素朴な家庭料理を伝えたいと、みそ汁には熱心に取り組みました。12人いた生徒の夫たちの出身地は日本全国、津々浦々。慣れ親しんだ味はそれぞれ違います。私は全国のみそを調べることにしました。
末っ子が生まれ3人になった子どもたちを連れて、みそ問屋へ向かいます。湿った甘じょっぱいこうじの香りに包まれた店内には各地のみそがずらりと並んでいて、主婦の私にも丁寧に産地や特徴について教えてくれました。「西日本は甘く、東から北にいくほど塩分量が高い」と聞き、購入して実際になめてみて塩気をチェックします。今は欧米でも「miso」で通じますが、1960年代末の当時は「fermented soybean paste(発酵した大豆のペースト)」と紹介し、九州、八丁、西京、信州、仙台などみその産地や原料、色、香り、塩分量などを表にして渡しました。
調理法や盛りつけで参考にしたのは、辻嘉一さんの著書「味噌(みそ)汁三百六十五日」です。辻さんは京都発祥の懐石料理店「辻留」の2代目主人で、和食の伝承に尽くした人。おいしいみそ汁の条件とは「釣鐘の音の余韻が嫋々(じょうじょう)として永く尾を引くのに似た、あと味の良さ」であり、「朝の味噌汁をじっくり味わう習慣は一家一門の幸福につながる」と書かれていました。本の初版は1958年。マヨネーズやトマトケチャップなど「直線的な味」を志向する若年層の味覚を憂いながら「戦中戦後の極度な食糧難のために、味覚の混乱が広い範囲に及び(中略)、戦後一般化したアメリカ的な生活様式が、ついには日本人らしい味覚の世界にまで占領区域をひろげた」とも指摘。日本人の情緒や幸福、さらにはアイデンティティーにまで結びつく味覚の大切さが説かれていました。
この本で四季折々のみそ汁を学び直し、注ぎ方まで解説通り体得しようと猛特訓。左手にわんを持って右手にお玉を持ち、汁をすくい、スッと水平に移動。こう注ぐと一滴もつゆがこぼれません。教室で具材やだしを講習すると昆布をkelp、ワカメを海の雑草(seaweed)と呼んで眉をひそめる人も。「ところで先生、だしの素はどれくらい?」と聞かれ、がくっとくる思いもしました。東京五輪ごろには顆粒(かりゅう)だしが登場していました。

 

 36.白木の食卓で (5/14掲載)
社宅のわが家で外国人の奥さんたちを相手に料理教室を始め、気がつけば立派に料理の先生です。食物学専攻だった学生時代は思いもしなかったのに、何ということでしょう。「食は人をつなぎ、人が生きる基本になるんだ」と考え直しました。
料理教室のとき、わが家の3人の子どもたちが「いただきます」「ごちそうさま」とあいさつすると、アメリカ人のジョイスとオーストラリア人のサリーが「何といい習慣でしょう」と感心しきりで言います。「あなた方は食事のとき、何とあいさつするの」と聞くと「ナッシング(何もなし)」。「お祈りするの?」とたずねると「今はやらない」とのこと。「日本では五穀豊穣の神に、ご飯を与えてくださったことを感謝して言うのよ」と説明しました。 教室の間、子どもたちの面倒を見ることはできません。同じ社宅でやはり3人の子どもがいるピアノの先生を見つけて声をかけ、預かり合うことを提案しました。彼女も「ベビーシッターを探していたの」と言い、「まあ。お互い、ラッキー」と私。ピアノのレッスンがある時は私が預かり、金銭のやりとりはなしです。週に1回、0~4歳の子ども計6人の〝保育園〟を開きました。
彼女のベランダの倉庫にあったミニコンサート用のパイプいすも譲ってもらい、「また必要になればいつでもお貸しするわ」と約束し料理教室に使いました。1969年、末息子が生まれるときに90センチ×190センチの白木の食卓を購入しました。これを囲んで生徒さんに座ってもらい、卓上こんろを置いて実演しました。この食卓で食事もし、手紙も書き、子どもたちと絵本を読んだり、折り紙をしたりしました。アイロンかけや赤ちゃんの着せ替えをするのにもちょうどよく、子どもが遊んでいるのを見ながら縫い物や編み物をしたり。子どもたちが寝てしまうと花模様のクロスをかけて、ちょっと気取ってワインとチーズを準備したりして、〝保育園〟の相棒夫妻と大人のつきあいの時間を楽しみました。
白木の食卓はその後も何役もこなし、傷も付いたけれど、苛性ソーダで「あく洗い」をしたり、ニスを塗り替えて使い続けました。子どもたちはここで勉強もし、巣立っていきました。今ではまた末息子の家で食卓として活躍しています。

 

 37.ちびさんマラソン (5/15掲載)
息子、娘、息子が続けて誕生し、瞬く間に3人の母親になりました。「一に栄養、二に運動」を信条に、まずはおなかがすいた状態をつくることに専念しました。3歳になった長男は活発だったので、毎日運動させることを思いつきました。
ひ弱で泣き虫さんだった娘はおんぶして走ります。社宅の人たちから「うちの子もお願いできるかしら」と次々と声がかかり、総勢8人に。東京・中野坂上の社宅から新宿副都心公園まで、ゆっくりゆっくり、歩道を走ります。ぞろぞろと走る小さな子の一団に、周りの人も「がんばれ、がんばれ」と声をかけてくれました。1960年代末、「豊かに生きる」とは何かを考える余裕がようやく日本にも生まれてきたころ。都心でジョギングする外国人をまねて始めたのです。
小さい子がいると家に閉じこもりがちですが、「ちびさんマラソン」で私まで気分爽快に。首にスカーフを巻き、当時流行していたミニスカートでさっそうと先導しました。公園に着いたら手製のピーナツのキャンディーをポケットから出して、みんなにごほうびです。運動の効果はてきめんでした。日々エネルギーを発散するため長男はみるみる筋肉質になり、食が細かった娘もマラソンの後は食べるようになりました。
夫は猛烈サラリーマン。家族サービスどころではありません。ときにはお弁当を持って好きな美術館にも行きました。佐伯祐三展が開かれたときには、2歳の娘と2人で出かけました。長男を幼稚園に送り出し、末っ子の赤ん坊は相棒のピアノの先生に預けて準備万端です。帰りに銀座の「空也」でもなかを買って、「はい、おみやげ!」とピアノの先生の家に赤ん坊を引き取りに行くのでした。
母親も外出したい。当然です。ときには気分転換しなくては。これで機嫌良く子どもたちとも付き合えます。ただし、欲張ったスケジュールはいけません。「ワンウェイ、ワンポジション(1回に1カ所だけ)」と割り切ること。そうすれば子育ての最中でも自分の楽しみを見つけることができます。今は母親のための「リフレッシュ託児」などもあり、子育て支援が拡充してきました。1人で悩みがちだったこれまでの母親たちの願いが、ようやく結実してきたのだと思います。

 

 38.三食と早起き習慣 (5/16掲載)
「村上さんを見ていると、面白いのよ。トーキーの早送りの映画みたいに、朝早くからベランダを出たり入ったり」。1960年代の終わり、東京の社宅アパートに住んでいたころ、向かいの棟に住む奥さんから言われました。子どもが寝静まった夜に洗濯し、翌朝5時にはベランダに出て布おむつや衣類を干すことから一日をスタートさせていました。
とはいえ、結婚当初の私は早起きが大の苦手でした。夫の啓助さんは必ず朝食を食べて出勤するし、弁当も作らねばなりません。実家で身に付いていた寝坊癖と「朝食なんて食べなくてもいいじゃない」とささやく、もうひとりの自分がいました。ある朝、大音量の鳥の鳴き声にびっくりして跳び起きました。啓助さんが、野鳥の声を集めたレコードを朝6時にセットしていたのです。心地よく目覚めさせようという配慮だったのでしょうが、「まるで保護者みたい」と腹を立てたこともありましたね。そのうち半ば強制的に早起きのリズムができあがり、朝食を食べるようになりました。食生活は環境がつくるもの。身に付くまではお互い忍耐が要りますが…。
規則正しい生活と三食のリズムの大切さを夫から学んだ私でしたが、最近では「時間栄養学」という考えが広まっています。従来の栄養学はエネルギーや食事バランスといった厚生労働省などの推奨量に基づき画一的な指導をしましたが、時間栄養学では個人のライフスタイルを考慮し「何をどれだけ食べるか」に加えて「いつどのような比率で食べるか」を考えます。
3本柱は①栄養バランスの取れた朝食で体の周期をつくる②夜9時以降の夕食は軽くして、脂肪の蓄積を防ぐ③エネルギーの摂取比率は朝3、昼3、夜4とし、心身の活動を促進する│ということ。さらに炭水化物は活動が盛んな朝と昼に、睡眠で吸収率が上がる夜にはタンパク質の比重を上げると効率よい栄養摂取ができます。
朝食を抜くと、体は「エネルギー節約モード」になり活動が低下してしまいます。また三食の時間とリズム、摂取量が一定でないと、間食が欲しくなり「ながら食い」の習慣が生まれてしまうのです。私が今も精力的に仕事を続けられるのも、若いころに時間と栄養と上手につきあう習慣が身に付いたおかげだと思っています。

 

 39.鍋と一緒にお願い (5/17掲載)
東京で暮らしていた私たち一家は1970年8月に大分市に転居しました。この年の春、ともに日本製鉄を前身とする八幡製鉄と富士製鉄が合併して「新日本製鉄(現新日鉄住金)」が発足し、夫の啓助さんは大分の新製鉄所の建設に関わることになったのです。
最初の借り上げ社宅は一軒家で、護国神社から上った崖の端に立っていました。近くの空港から飛行機が離着陸するのが見え、子どもたちは大喜び。お向かいは日本酸素(現大陽日酸)の借り上げ社宅で、奥さんの江頭祥子さんが引っ越し中の私たちに温かいお茶を差し入れてくれました。その後も懇意にして、子どもの1人が体調を崩すと、病院に行くため煮ている途中のおでんの鍋を抱えて向かいの江頭家へ行き、残り2人の子どもを「悪いけど一緒に食事させてください。おでんの仕上げもお願いします」と鍋と一緒に預けたりと、本当にお世話になりました。
翌年4月、新設された社宅の明野団地に転居しました。まだ赤土が目立つ造成地のアパート群で、借り上げ社宅にばらばらに住んでいた新日鉄社員の家族が集まってきました。実はわが家は現在まで自動車を持ったことがなく、啓助さんはバス通勤。遅れるとマイカー通勤の人に乗せてもらっていましたが、そのうち事情を知った独身寮の寮生たちが乗せてくれるようになりました。帰りも時間が合えば送ってくれ、そのまま一緒に夕食になることもしばしば。寮生たちの目当ては家庭の味でもあったようですが、休日には彼らが魚を釣ってきてくれることも。アジは空揚げに、ウマヅラハギは皮をはいでみそ漬けにしたりと一緒に舌鼓を打ちました。助け合いの精神と連帯感で世の中が回っていた時代です。
団地ではいろんな流行の仕掛け人になっていました。寒天ヨーグルトを温かい牛乳に入れて作る自家製ヨーグルトなどを考案すると、団地中に広まってみんながまねして、はやるのです。そのうち啓助さんの後輩の斉藤斗紀雄さんが結婚し、「妻に料理を教えてほしい」と頼まれました。1人から始めた教室が、「東京から来た料理の先生がいる。熱烈な人で楽しくて、おいしいらしい」と口コミで広がり、4年間で生徒は90人になりました。料理教室が「知的なお稽古事」として広まった時代でもありました。

 

 40.魔法の箱「レンジ」 (5/18掲載)
大分市明野の団地に移ったころ、市内の体育館で家電フェアが開かれました。1950年代から本格化した日本製家電の発展は70年代にはまさに「ライジング・サン」、日が昇る勢いでした。以前から聞いていた新家電をチェックしに出かけました。「電子レンジといって、何でもあっという間に温まるんだよ」と販売員のおじさんは胸を張ります。
アメリカから取り寄せた雑誌でも、すぐに食材が温まる「エレクトロニック・オーブン」なる電子レンジの特集を読みました。「すぐに温まる」とは魅力です。3人の子どもの育児と食事作りに追われていたころ。夫の遅い帰宅のたびにごはんを蒸し直したり、おかずを温め直す手間も省けます。手抜きは嫌だけど、手間が省けるのはいいことだわ。
私は社宅まで駆け戻り、冷凍していた4人分のグラタンを持って会場に戻りました。「これを温めてみてくれますか」と頼んだところ、ゴーゴーと派手な音がするだけで、待てど暮らせど温まらず、解凍もされません。「湯せんにしながらオーブンで解凍加熱した方が早いわ」。私はがっかりしてまたグラタンを抱え、会場を後にしました。
困ったのは販売員のおじさんです。会場で「あの人はだれ?」と聞いて回り「明野の団地にいるらしい」との情報を得たようです。展示会が終了した夜、レンジを抱えてわが家を訪れ、こう言いました。「価格は格安にしますから、使ってみて分かったことを教えてくれませんか!」。サラリーマン家庭には〝高根の花〟だった電子レンジが思わぬ形でわが家の一員になったのでした。
電子レンジの登場と普及は、冷凍庫付き冷蔵庫の一般化と両輪で進んだといえます。冷凍庫の登場は核家族化が進んだ家庭で、食品の保存期間を飛躍的に延ばし、作り置きも可能にしました。私も四国でひとり暮らしをしていた舅に家のおかずを1食分ずつ取り分けて冷凍し、10キロ分をドライアイスを入れた箱に詰めて送っていました。
冷凍食品の解凍なら電子レンジの得意技です。しかし当初の私は「ちっとも温まらない」とがっかりしたものでした。電子レンジという「魔法の箱」が持つ、食品重量と加熱時間の法則を体得するまでには、長い実験と失敗の日々が待っていました。

 

 41.失敗と実験の日々 (5/20掲載)
そもそも電子レンジはレーダー研究の途上で生まれたといいます。生みの親はパーシー・スペンサー博士。1945年にアメリカの軍需メーカー・レイセオン社で電磁波の研究をしていた博士は、実験室に入るとポケットに入れたチョコレートが簡単に溶けてしまうのを不思議に思いました。調べてみると、電磁波がチョコレートを内部から加熱していたことが判明したのです。そこで電磁波だけを出すコンデンサーを開発し、調理器具に応用したのが電子レンジの始まりです。日本では?年代はじめに業務用の国産製品が登場し、東京五輪の年(64年)に開通した新幹線にも装備されました。
家庭用の電子レンジは70年前後から大量生産され、わが家の台所にもやってきました。説明書には温めだけでなく「料理も作れる」とあります。持ち前の好奇心に火が付き、あれこれ挑戦してみたのですが、何をどうやっても硬くなったり、焦げてしまったり。生卵を落とした皿を電子レンジにかけてみたときは、きれいな目玉焼きができたと箸を入れた途端、パンッと破裂して前髪が黄身だらけになり、「今何が起こったの?」とぼうぜん。この失敗から「卵は黄身の薄膜に穴を開けて加熱する」という経験則を得ました。アップルパイを焼きたてに戻そうと電子レンジにかけたときは、パイの皮はぬるくて湿っぽいのに、中身のリンゴは恐ろしい熱さでやけど寸前。これで、電子レンジでは食材が内部から加熱されるようだと知るのです。
やることなすこと結果は散々。本人は必死でも、迷惑なのは家族です。ある日、鶏肉にマーマレードを塗って電子レンジで加熱すると焼け目がまだら。一度に4本も入れたのも失敗の一因でした。これを食べて、めったに怒らない夫の啓助さんがついに雷を落としました。「まずい!電子レンジなんか、捨ててしまえ」
さすがにこたえましたが、そこで引き下がる祥子さんではありません。「いざ、勝負」と、この未知の可能性を秘めた調理器具と地道に付き合っていきました。現在のように使いこなすまでには?年近く費やしましたが、徐々にわが家の強力なサポーターになっていきました。後に啓助さんからもこんな言葉をもらいました。「君、これからは電子レンジの時代だね」

 

 42.最初で最後の家出 (5/21掲載)
大分市明野に転居して間もない1971年、一時は育児と家事で慢性的な睡眠不足になり心身ともに疲れ果ててしまいました。3人の子どもたちはわんぱく盛りで相当なエネルギーが必要でした。夫の啓助さんはとても忙しく母も姑も亡くなっていて頼りになる人もおりません。
ついにある日、「どうにかなるわ」と子どもを置いたまま大分駅まで走っていきました。とにかく遠くに行きたい。「村上さん、お出かけ?」と不意に駅で声を掛けられ振り向くと、知り合いの顔が。「人を迎えに来たけど、時間を間違えたようです」とごまかしましたが、もう汽車に乗るのは無理です。かといって、帰りたくはない。 開業したばかりの大分西鉄グランドホテルに向かい、最上階のレストランでスモークサーモンとパンを注文しました。体に染みいるようでした。家に電話すると、夫の啓助さんが帰宅していました。「子どもを放ってどこに行ったんだ?」。怒った声ではありません。静かに言われました。「とにかく帰ってきなさい」。私の家出はたった一度、この数時間で終わりました。出迎えてくれた夫と、スモークサーモンと、どちらが私を力づけてくれたのでしょうか。温かな人間関係の中にあっても疲れたり、ふと孤独感に襲われ投げ出したくなることは、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。
子どもたちは別府のプールに通い始め、たくましく成長していきました。70年代には無果汁の粉末ジュースが流行し「水道水がオレンジジュースになる」と子どもには魅惑的な存在でした。鮮やかな色とメリハリのきいた人工の強烈な味は子どもを引きつけてやまなかったようです。 その後東京に転居したころ、子どもに留守番を任せて帰宅すると家中がべたべたです。粉末ジュースの大パーティーをやったようで、末っ子の大造がひとりべそをかきながら待っていました。叱るにも上の2人は遊びに出かけていません。気を取り直し、「大ちゃん、おすし買いに行こう!」。3人の子どもと追いかけっこするような日々に気がめいることもありましたが、最後はやっぱり、おいしいごはんに救われました。ささくれ立った気持ちもすーっと鎮まって「まあ、いいか」。そして「よし、がんばろう」と立ち直ってきたのです。

 

(4.料理研究家デビュー へ続く)