西日本新聞 聞き書きシリーズ 「ちゃんと、ごはん」 八幡へ

西日本新聞(2013.04.01~) より転載


 52.涙と覚悟の転居 (6/1掲載)
料理研究家として出版や広告界で認められ始めたころ、夫の啓助さんが言いました。「僕の名前や何かを公にするのは、控えてほしい」。いつも私の活動を応援してくれる啓助さんですが、会社のエレベーターで上司にこう言われたそうです。「奥さん、ご活躍だね」。ある雑誌に啓助さんの会社の名前や肩書まで出てしまい、上司の目に触れたようでした。現役の会社員として私の言動のせいで仕事がやりづらくなっては申し訳ないことです。「世に出ること」の重みとリスクを痛感しました。
念願のマイホーム購入から2年後、会社員の宿命として啓助さんに転勤の辞令が出ました。啓助さんは「単身赴任で行くよ」と言ってくれましたが、私は決断しました。決まっていた会社を入社直前にお断りして結婚したとき、地の果てまで付いていくと決意していたのです。仕事を全て整理し、主婦一筋に戻る覚悟をしました。1980年のことでした。
出版界では「せっかく芽が出たところで東京から去るなんて」「村上さんも終わりね」とささやかれました。料理写真家の佐伯義勝先生は「もったいない。天を仰いで泣きたいよ」と惜しんでくださいました。撮影や料理教室のために集めた調理器具や食器を磨いて家中に並べ、生徒さんたちに格安の一掃セールをしました。最後の一皿まで売れてしまい、いよいよ家を出るというとき、がらんとなった台所に座り込み、思わず大粒の涙がこぼれました。
転勤先は私の故郷でもある北九州市でした。住まいは新日鉄(現新日鉄住金)の社宅で、八幡東区の高見にありました。八幡製鉄所の歴代の副所長が暮らした築70年の古い社宅が空いていて、「お子さんも3人だし、空けているのももったいないから」と言われて入居したものの、敷地が400坪、建面積106坪もあり驚きました。緑の庭では柿やタケノコ、フキノトウが取れ、四季の巡りに合わせてカエルやセミ、鈴虫が鳴いていました。
東京での忙しく刺激的な毎日から一転し、家族でゆっくり食卓を囲む時間を持てるようになりました。夕食には会社の独身寮の若い人たちも加わります。しかし…。朝、子どもと夫が出かけると寂しくなるのです。ああ、なぜ仕事をやめて来たのだろうと思われてなりませんでした。

 

 53.おいしいをつづる (6/3掲載)
料理研究家としてスタートを切りながら、1980年に東京を離れ北九州市八幡東区に転居しました。仕事を全て整理してきたつもりでしたが、家の中でじっとしていられませんでした。雑誌「栄養と料理」(女子栄養大学出版部)の当時の編集長、大橋禄郎さんに言われた言葉を思い出しました。「これからの料理研究家はレシピを書くだけでなく、文章を書けなければ務まりませんよ」
「好きな作家の本を書き写すことからやってみては。句読点から構成まで身に付きます。そして書きたいことができたら送ってください」ともアドバイスしてくれました。人の文章を書き写したりする性分ではありません。早速せっせと自分の文章を書いては送りました。82年から私の連載企画「九州味紀行」が始まりました。九州の食のリポートで、例えばイノシシ肉の回。「猪突(ちょとつ)猛進といわれるように向こう見ずでエネルギッシュ、そしてどことなくユーモラスなイノシシ、その猟は九州山脈では11月15日に解禁となります」…。
「おいしい」を伝えるため食材をめぐる風土と文化、調理までをつづります。おいしいという言葉をひもとけば充足感や幸せ、温かみなど無数の日本語が出てきます。料理の艶や香り、温度や気持ちなどをつづっていけば、具体的にどうおいしいのか、情景が立ち上がってきます。挿絵は父、大島虎雄に頼みました。 筆があれば人に食の幸せを伝えられることに気付き、お菓子を何箱も焼いて一張羅を着て西日本新聞社に飛び込みで企画を持ち込みました。音沙汰なく半年が過ぎたころ、当時の担当デスクの草地勉さんから「1か月だけ試しに」と採用の電話が来ました。八幡から高速バスに乗って福岡市・天神の新聞社へ原稿を毎回持参しました。本社のそばの因幡(いなば)うどんを食べて、とんぼ返りです。
暮らしのエッセーとレシピをつづった「いきいきサチコの家庭料理」は18年間続き、名物コーナーに。担当記者も延べ22人に上りました。旬な話題も意識し、俳優へンリー・フォンダが亡くなった時には主演映画「怒りの葡萄」に登場した塩豚を紹介しました。掲載日には問い合わせで自宅の電話が鳴りっぱなし。読者の方との会話の中で、家庭の数、人の数だけある食の形を知り、現代社会のニーズをくみ取ることにもつながりました。

 

 54.歯18本を失う (6/4掲載)
1982年のある日。梅干しの種をかんだ瞬間、体中に激痛が走りました。不安に駆られながらも「このくらいのことで」と放っていたら、高熱が続くようになりました。北九州市・八幡の社宅で料理教室や執筆の仕事を続けていたころ。風邪だろうと市販薬でやりすごしましたが、体の火照りが治まりません。 顔も腫れあがってきました。まず整形外科に行くと「気のせいでしょう」。内科、耳鼻咽喉科、脳外科と行く先々で紹介状を書いてもらい、病院を渡り歩きました。痛みを訴え続ける私に、ある医師は自律神経失調症と診断しました。処方された薬を飲むと、目の前がチカチカするように苦しくなりました。火照りも治まらず水に浸して絞ったTシャツを着て家事をしていました。以後も50回は病院の門をたたきましたが、ある夜、激痛と悪寒に襲われてとうとう救急車を呼びました。 検査の結果、高熱と頭痛の原因は20年前に親知らずを抜いた時の処置ミスと判明しました。深刻な慢性骨髄炎だったのです。炎症部分のブドウ球菌が血液を介して頭部全体に疾患を広げていたのでした。 治療は抜歯して顎骨を砕き、炎症を起こしている骨髄を除去する方法です。製鉄記念八幡病院口腔外科の児玉高盛先生の勇気と緻密なメスさばきで生還できました。その後4年間で手術は8回、計18本の歯を抜きました。歯肉が元に戻るまで義歯も入れられず、食事や会話もままなりません。料理研究家として致命的な事態でした。入院中は絶食を経て流動食になります。楽しみは食事に尽きるのにコップ1杯でおしまい。生きる希望までしぼみそうになったあるとき、夫の啓助さんが頂き物の生ハムを持って病室に来ました。「僕一人で食べたら、後でどんなに恨まれるか分からないから」
私は口に入れ、丸のみしました。塩気が傷口に染みますが、うま味にしびれるような幸せがよみがえります。啓助さんが帰った夜、病院の赤電話に十円玉を入れ「もう一度生ハムを」と頼みました。手術後は体をつくるタンパク質が必要です。私は生きるために食べ続けました。ふさぐ気持ちに身を任せては回復できません。「生き返ろう」という気概で食べ、体をつくりました。この経験で、生命の営みを絶やさないよう「ちゃんと食べる」ことの意味を悟ったのです。

 

 55.クッキングサロン (6/5掲載)
慢性骨髄炎で手術を繰り返していた40代でしたが、毎回手術して3日もせずに退院を願い出ていました。北九州市・八幡の社宅で月に8回料理教室を開いていて、これを休むわけにはいきません。病院のベッドで配布資料を作り、退院したその足で材料の買い出しをして、教室を続けました。
手術を重ねて体調が優れず、時々すさまじい痛みに襲われましたが、病気に打ちのめされてはおれません。家事もあれば毎週の新聞連載の執筆もあり、何より生徒さん方が料理教室を楽しみに待ってくださっているのです。目的と責任は体を奮い立たせ、生きる力になります。仕事と、私を待っていてくださる方々に生かされた日々でした。1985年には初の単行本「私の家事マル秘ノート」(講談社)を出版。八幡の料亭「千草」で開いた出版記念会に生徒さんたちが集まってくれたのも、忘れられない思い出です。 バブル経済の始まりは86年といわれますが、80年代といえば「グルメ」という言葉が広まり、欧米だけでなく南米やアジアなどのエスニック料理も次々紹介され料理界はいっそう華やぎを増していました。料理教室にも優雅さが求められます。私はサロン風の演出を試みました。台所を改装して若草色を基調にし、壁一面に棚をつけ保存食の瓶を並べ、中央には大理石の調理台を置きました。名付けて「サチコクッキングサロン」。生徒さんに座ってもらい、私が料理を実演するデモンストレーション形式です。料理の生まれた背景やコツを解説しながら、質問にも随時応じます。ある人は「先生を指でちょっと押すと、料理の話がスラスラ口から出てくるよ」と言いました。時の話題や人生についても折り込んで語るので、最近は「女版・綾小路きみまろ」と呼ぶ人もいます。
実演後は食堂で試食していただきます。季節に応じたメニューでフルコースなら8品、和食は茶懐石レベルを作りました。夢をかき立てる料理を紹介しながら、サバのみそ煮や肉じゃがなど家庭料理も講習。帰ってすぐに役立つ要素もなければ教室の意味がありませんよね。サロンといっても会場設営から掃除、演出用の花を生けるのも、もちろん自前。親友の松尾洋子さんと小林妙子さんの協力もあり、勇敢に優雅な時空間をつくっていました。

 

 56.教育界に道開ける (6/6掲載)
妻を早くに亡くし高松市で一人暮らしをしていた義父が、1983年に他界しました。わが家へもよく遊びに来てくれ、晩年は私たちが毎週末に北九州から四国に通って料理や身の回りの世話をしていました。義父はほめ上手な人でした。
「おいもさん、こんなにうまく炊く人はありませんで」「この切り干しの味はなかなかのものでっせ」などと言って、本当においしそうに食べるのです。ほめてくれると、こちらもその気になって腕を振るいたくなります。あるとき、ホットプレートで義父には牛のヒレ肉で、子どもたちにはひき肉でピカタ(肉に卵をからませて焼くイタリア料理)を作ったところ、義父は「こっちのほうがおいしい」といたくひき肉ピカタを気に入りました。今思えばひき肉はそしゃくや飲み込みがしやすいため、高齢者にやさしい食材ですね。
作り方を伝えると義父の十八番(おはこ)料理になり、一人暮らしの家でもたびたび作っていたようです。介護でも食事から身の回りのことまですべて先回りしてやってしまうより、自立のきっかけをつくった方が生きがいにつながると気付きました。
そんな義父の四十九日を済ませ八幡に戻った夜、電話が鳴りました。当時の西南女学院短大(北九州市小倉北区)の二木(ふたつぎ)栄子先生からで、調理実習の非常勤講師のお誘いでした。介護が終わった途端、新しいチャンス到来。「やります」と即答です。二木先生は福岡女子大の私の4年後輩で、私の記事や著書を見て声を掛けてくれたのです。教育界での経験がなかった私を熱烈に推薦して下さり、84年4月1日に辞令を受けました。
ワンピースを大胆に着こなして、ひらりと登場。本格料理から熱々のアップルパイまでありったけの知識を披露して講習します。18、19歳の学生は熱心ながら、やんちゃそのもの。「三角巾忘れたの?」と聞くと、「いえ、ここに」とちらりとスカートをめくって膝に巻いていたり…。調理学の池田博子先生との出会いもあり、1年で短大の授業が終わった後も二木先生や他の先生方とわが家の料理教室にも参加してくださいました。その後も学外講師として講演や校外実習を続け、資料整理術も紹介。学生たちは料理のイラストやレシピが詰まった自分だけの「調理実習ノート」を作っていたようです。

 

 57.タイフーンさちこ (6/7掲載)
資料収集と管理を仕事の核にしてきた私ですが、1983年、食の情報処理を本格的に研究したいと考え、母校の福岡女子大(福岡市東区)を訪ねました。早渕(はやぶち)仁美先生(公衆栄養学)のゼミの研究生になり、研究テーマを「食品分類、料理分類の研究」としました。先生と共同で論文「使いやすく汎用(はんよう)性のある食品コードの一試案」を日本家政学会に発表。科学技術庁(現文部科学省)による「四訂日本食品標準成分表」の改善点を検討し、栄養計算が効率よくできる分類法などを提案しました。
その後、福岡女子大で調理指導も任されるようになりました。実習と講座は遅刻厳禁とし、時間いっぱい使います。卒業生たちは当時の私を振り返って「さーっと現れ、アクティブに授業し、ぱーっと去っていく」と言うようです。高校生のころ、私は「すたこらさっちゃん」と呼ばれていましたが、このころ学生から「タイフーンさちこ」というニックネームまでもらいました。
「自身の一週間の食事記録と考察」を課題に出したときは〝缶ビールに冷凍シューマイ〟といった学生たちの食生活に驚きました。85年に「健康作りのための食生活指針」(厚生省=当時)で「1日30品目」が提唱されたころです。私はより現実に即した「1日15食品1600キロカロリー」を考案。電子レンジを活用した「早い、おいしい、簡単」調理を伝え、食意識の改善を図ったのです。
85年に管理栄養士の国家試験制度が始まり、47歳の私も学生と一緒に受験して資格を取りました。福岡市まで講座に通い、10日間ホテルに缶詰めで勉強しました。栄養士の資格は専攻学科を卒業すると自動に取得できますが、管理栄養士はより専門的な知識が求められます。栄養管理だけでなく疾病予防まで対応できる能力が求められたのです。
猛勉強してより分かりやすい指導ができるようになりました。例えば「この食品はビタミンを含み、疲労回復に良い」と紹介するとします。このままだと分かったようで分かりません。疲れやすいのはエネルギー不足の状態です。「食品中のビタミンB1は炭水化物を、B2は脂肪をエネルギーに変えてくれるので体温の高い元気な体を維持できます。だから食べても疲れるのはビタミン不足の可能性もあるのです」と具体的に言えば理解しやすいですよね。

 

 58.勉強の前に食事 (6/8掲載)
新聞や雑誌の仕事、大学の非常勤講師と全力で走り抜けた1980年代、わが家の3人の子どもたちは中学、高校、大学生へと成長していきました。年ごろですから無邪気な子ども時代とはまた勝手が違います。 思春期には、親の存在を「面倒くさい」と思う時期が多かれ少なかれ誰にでもあるものです。子どもは基本的に、親に反旗を掲げ続けますよね。わが家にも思春期の危機はそれなりに訪れました。オートバイに乗った息子がタクシーと事故を起こせば、現場に駆け付けます。ロールキャベツの予定の夕飯がキャベツ炒めに変わります。「おふくろが作るケーキは食べたくない」とコンビニのクリスマスケーキで友達とパーティーを開きます。糸の切れたたこのような息子たちの行動にハラハラしたこともありましたが、必ず食事は作りました。「帰れば温かいご飯がある」という安心感はあったはずです。
面と向かってのコミュニケーションが難しい時期ならなおさら、食事を通して「あなたを思っている」という心を伝えたいものです。そう思うと、お弁当も親子をつないでくれました。毎朝、夫と子どもたちの弁当計4個を作りました。ハンカチで包み、それぞれの名札を添えて、玄関のあがりがまちに並べたものです。 勉強するにもまずは食事から。体と脳をつくり、動かす燃料がなくては持久力も集中力も生まれません。80年代といえば、学歴社会を反映した詰め込み型教育のまっただ中。「食事の時間も惜しんで勉強すべし」とする風潮もありましたが、精神論だけでは体はおろか、情緒も育ちません。おなかを満たすだけでなく、何をどう食べるかを自分で考えられる「食べ力」を早くから身に付ければ自立した人生につながります。
ただ、人間は感情の動物です。理論通り実行すれば健康な精神と肉体が育まれるというわけでもありません。今失われつつある、みんなで囲む「食卓の力」は大きいのです。幸いわが家は家族が多い上、父や義父、夫の社内テニス部の後輩や子どもたちの友達など、いつも誰かしらお客さんが座って一緒にご飯を食べている状況でした。誰かがむくれていても、膨れっ面をしていても、大勢に紛れていつしか心癒やされて気を取り直していました。

 

 59.空っぽのカロリー (6/11掲載)
バブル経済が加速し好景気に沸いた1980年代後半、日本では食べ物があふれた日常が当たり前になりました。少し前から「飽食の時代」という言葉が流行し、肥満気味の子どもが社会問題化。交通や通信機器の発達で、大人も子どもも日中の活動量が減る一方、一日中だらだらと食べ続けるため、すっきりとおなかがすいた状態が生まれなくなりました。食事の最も大事な調味料である「空腹」が消えていったのです。
核家族化も進み日本の素朴な食事が失われ、インスタント食品やスナック菓子など「ジャンクフード」と呼ばれる高カロリー・低栄養価の食品が次々に登場し、食生活を変えていきました。高カロリーなのに低栄養の食べ物を取り続けると、どうなるのでしょうか。幼児をもつ母親向け月刊誌の撮影中のことです。モデルは愛らしい3歳の女の子。プロダクションの人は機嫌を取るため、ジュースやチョコレートを与え続けました。初めのうちは笑ってふざけていたその子が、突然「ぎゃー」と泣きわめきだしました。糖分の過剰摂取で脳が興奮状態になったのです。
糖分は脳細胞を活発にする即効性がありますが、過剰に取ると大人でも興奮状態を招くことがあります。ジャンクフードはエネルギーだけ高く、体や脳の基本をつくるタンパク質やミネラル類が不足した「エンプティーカロリー(空っぽのカロリー)」なのです。糖分や油脂が過剰な食事を続けると、肥満であるのに貧弱な体になるのはこのためです。
乱れた食生活の反動のように、ビタミンや食物繊維、カルシウムを含んだ食品(機能性食品)がブームになりました。小腹がすいた状況を手軽に満たせる「カロリーメイト」もヒット。好景気を支える働き手たちのため、カフェインを大量に含んだ栄養ドリンクが「24時間戦えますか」などと大々的に宣伝されました。
時代は即効性を求めました。口当たりがよく、すぐエネルギーになる食事は一時はしのげても、体に良いとは限りません。食べるという行為には、かむ、唾液の分泌、飲み込む、消化、吸収…と多くの過程があり、脳と臓器が刺激を与え合ってエネルギーを生み出します。脳や臓器をほとんど動かさずにカロリーや栄養素を摂取する食事は、命の営みや食の本来の姿を見失うことにもなるもろ刃の剣なのです。

 

 60.変わる食卓の風景 (6/12掲載)
ときは昭和から平成へ。子どもたちは独立していき、夫婦2人の生活を考え始めました。ついのすみかは福岡市に決めました。人づてに探していると、中央区御所ケ谷の住宅地に手の届く土地が見つかりました。
1989年に株式会社「ムラカミアソシエーツ」を設立。活動の本格化に備えるのと、スタッフに正式に社員として働いてもらうためです。それまでの料理の先生とスタッフ(助手)は、茶道や華道のように師匠と弟子の関係で、給料など金銭関係もあいまいなのが一般的でした。私は「これからは高い技術を持つ女性ときちんと契約し、ともに仕事をする時代」と考えたのです。
90年に御所ケ谷に完成した念願の専用料理スタジオで、教室を再開しました。男女雇用機会均等法施行(86年)で女性の社会進出が進み、生徒さんにも働く女性が増えてきました。家事時間の短縮で冷凍食品や、総菜、宅配ピザ、コンビニ弁当といった調理済み食品を家庭で食べる「中食(なかしょく)」も急速に浸透しました。本格派料理を教えながら冷凍術や作り置きおかずも講習し、限られた時間でいかに効率よく料理を作るかを伝授しました。スライサーやフードプロセッサーなど調理器具を積極的に導入し、レシピの簡略化に努めました。
単行本の出版も続きました。読み返してみると言葉ひとつひとつから、時代と食の風景が見えてきます。
91年に出版した「アイディアいっぱいの家庭料理」(講談社)のキーワードは「簡単」「ヘルシー」。当時はまだ珍しかったカロリー表示もしています。「手ごろ」という言葉も登場し、豪華さを競ったバブル経済の崩壊が家計に落とした影響もうかがえます。94年の「はじめて作るお菓子」(主婦の友社)でも、ポイントは「甘さ控えめ」。料理界では「ヘルシー」が不動のテーマとして定着しました。
96年の「電子レンジおかず」(講談社)では、「2人分15分」を主題にしました。日本の1世帯当たりの平均人数(総務省調べ)は60年代半ばまで4~5人だったのが70年に3・41人、80年3・22人、90年2・99人、95年2・82人と減少しています。こうした現状と裏腹に、相変わらず「4人分」が定番だったレシピを思い切って見直し、簡単・スピード料理を提案したのです。

 

 61.父の絵手紙 (6/13掲載)
「亮子ちゃん、ままごとが上手だそうですね。暑い日は帽子をかぶっていますか」…。北九州市・八幡に暮らしていた父・大島虎雄は、わが家の子どもたちが1歳のときから中学生ごろまで、たびたび手紙を書いて送ってくれました。柔らかいタッチの、ほのぼのとした水彩画が添えられた絵手紙です。
若松の石炭商の長男に生まれながら絵を描くことが好きで、若いころは東京で「銀座のトラちゃん」と呼ばれる〝モダンボーイ〟だった父。家業には身が入らず八幡で画材店を開き、無口で人生には不器用な人でしたが、絵手紙には孫たちへ精いっぱいの愛情が込められていました。56歳で母を亡くした後、しばらく1人暮らしをしていた父にとって、好きな絵を介した孫たちとの交流は大きな喜びだったようです。
58歳で新しいパートナーとの再出発もありました。あるとき父が言いました。「道を歩いていたら、ばったり昔の知り合いの女性に会って、店を手伝ってもらおうかと思って…」。そんな偶然、ありえません。私はすぐに理解しました。「再婚なさったらいかがです」。母への思いは募りますが、父が幸せな日々を送ってくれるならとの願いからでした。再婚相手のきみ子さんも父や私たちをとてもよく思ってくれたのです。
1人暮らしのころは「ときどき角のタバコ屋の前でキラキラ光をまき散らして走る電車を見ています」などと感傷的だった父の絵手紙が、再婚後は家庭の情景も描かれ、穏やかな日々がのぞくようになりました。スケッチブックを持ってぶらりと海外にも出かけ、いきなりニューヨーク(米)の街並みやマッターホルン(スイス・イタリア国境)、テムズ川(英)を描いた絵手紙を現地から送ってきては驚かされました。
1991年3月、父が傘寿(80歳)を迎えたのを記念し、私は200通近くあった絵手紙展を企画しました。会場は福岡市中央区の山本文房堂さん。多くの人が訪れた会場で、父は新聞社の取材に「絵が好きな人はほっといても描くもんですよ。一日何時間って気張って描くもんじゃないし。気が向いたときに、窓から見える風景をスケッチしたりね…」と自然体で答えていました。その3年後、83歳の生涯を閉じました。絵筆を握り続けた自由で風流な人生でした。

 

 62.鶏肉の革命 (6/14掲載)
ほどよい弾力が残る柔らかな肉質と、コクのある風味。1994年、佐賀県の「みつせ鶏」に出合いました。同県鳥栖市の食品会社「ヨコオ」が7年の歳月をかけて開発したブランド鶏です。その最初のプロモーション(紹介、販売拡大)役として、縁あってレシピや商品開発のアドバイザーになりました。観光牧場「どんぐり村」(佐賀市三瀬村)の開村でも話題を集めた会長の横尾英彦さんが敏腕をふるっていたころで、活気があり面白かったですね。
グルメブームと食肉輸入が拡大した80年代後半、全国各地で国産肉のブランド化が進みました。日本で畜産業が本格化したのは60年代。特別な日だけ恭しく食卓に上がっていた肉は、高度成長による所得増加で日常的な存在になり、急速に消費が拡大していきました。意外なようですが、鶏肉はそれまで牛肉より高価で貴重な食材でした。それが、短期間で育成・出荷できるブロイラー品種の導入で大量生産が可能になり、飼育から流通販売まで一括して行う「インテグレーションシステム」が発展し、一気に低価格化を実現したのです。
ヨコオは大正時代に米問屋として創業し、63年に養鶏業に転業。88年から新しいブランド鶏開発に参入し、94年に誕生したみつせ鶏はフランスの赤鶏を系譜に持ち、赤身肉が多いのが特徴です。その柔らかさとコクは現代日本人の嗜好(しこう)にピタリと合うものでした。レシピ・商品開発にあたり、ヨコオからは①時流を意識したおしゃれなメニュー②家庭向けは電子レンジも活用③業務用はアルバイトの従業員でも柔らかくジューシーに仕上げられるこつ…などの依頼を受けました。
調味料付き商品も多数登場しましたが、私は「いろいろ味付けせず、シンプルに塩でジャッと焼き上げた方が、この肉の味が引き立ちますよ」と提案してきました。アイデアや挑戦は、案外〝吹っ切れてみる〟ところから生まれるものです。足すばかりでなく、引いてみることも大切な手段なのです。
そして、常に「肉の2倍の野菜と一緒に」を意識してメニューを考案しています。日本人の肉食傾向が問題視されることもありますが、このシンプルな決め事さえ頭に入れておけば、食事のバランスが保てるのです。

 

 63.鷹軍団「勝利の献立」 (6/15掲載)
九州のファンに愛される福岡ソフトバンクホークス。1989年に「福岡ダイエーホークス」として発足した時から球団が他チームに先駆けて画期的な栄養指導を行い、選手の体づくりをサポートしてきました。福岡女子大の早渕(はやぶち)仁美先生が長年取り組まれ、私も同大で非常勤講師を務めた90年代に2度、選手の妻たちへの講習を担当しました。
95年7月のテーマは「疲労回復とスタミナ保持」。冒頭で王貞治監督(当時)があいさつされました。「選手生命は健康管理にかかっています。体づくりに配慮して、しっかり食べさせてください」。選手の奥さんたちは20代が大半。結婚前はモデルや客室乗務員など華やかな職業だった方が多く、料理の経験はあまりありません。野菜たっぷりの青菜ジュースから電子レンジの手早い調理術も紹介。食事は選手の成績に直結するため、みなさん大変熱心です。チームリーダーだった工藤公康投手の奥さんは毎日熟慮した弁当や間食も準備するという献身ぶりでした。
球団専属の管理栄養士も置かれ、シーズン中は試合を観戦しながら即戦力につながる食事を決め、シーズンオフには体づくりのための食事を提案します。早渕先生によると、当初は「野菜は嫌い」という選手や「何を食べようが僕の勝手」と言い切る選手もいたそうです。身長190㌢以上あった選手は「これ以上大きくなるのは嫌だから牛乳は飲まない」と言っていたのが、測定すると骨密度が低いことが判明。その後は牛乳摂取だけでなく食生活全般を見直し、好成績を残したとのことです。
サッカーの横浜マリノスの栄養指導にも関わりました。選手たちはエネルギーを生む炭水化物を中心に食べ、普通の成人の2倍近いカロリーを摂取しながら体脂肪率はわずか8・8%ほど。監督の意向で全員ホームグラウンド近くに住み、昼食も必ず家で取るので奥さんたちは大変です。ゴールキーパー榎本達也さんの妻律子さんからは「最近、骨に関わるけがが多いのが気になる」「献立が単調になりがち」と相談を受け、「トマトとちりめんじゃこのサラダ」など遊び心もある栄養メニューを紹介しました。選手に何が不足し何が必要かを的確に把握し、トレーニングや測定と連動して食事による体づくりを続けるのです。

 

(6.東京へ再挑戦 へ続く)