平成25年度北九州市婦人団体指導者研究集会 「料理は自立の第一歩」 1

 

健康な体は食事で作られます

 皆さま、こんにちは。村上祥子です。平成25年度北九州市婦人団体指導者研究集会にお招きいただきまして、ありがとうございます。きょうは、「料理は自立の第一歩〜若く、美しく、元気に〜」という題に沿って、お話しをしてまいります。よろしくお願いいたします。健康は目的ではないのですが、快適に過ごしていくための手段になります。私の写真、ピンクを着ていますが、この間、NHKに出た時に購入し、いかにも若く見えるようにつくろっております。先ほど、株式会社ムラカミアソシエーツとご紹介いただきましたが、お料理の先生の会社です。今はお料理の先生というのは、昔のように徒弟制度ではなく、スタッフは社員です。給料を払い、交通費や保険などをつけるシステムになっています。
 健康な体というのは食事で作られます。私たちは不自由なことに食べて体を作るしかないのです。いろいろな本が出ています。肉は食べなくていいなどという本もありますが、アスパラガスを見てください。そして私たちの体を見てください。あまり似ていませんね。野菜は体のタンパク質を合成するアミノ酸20種は全部含んでいますが、アスパラの形を構成するアミノ酸の割合は人間と全然違います。野菜ばかり食べていますと、人間の体をつくるには不都合なことが起こります。だから、肉も魚も食べなくてはいけませんし、豆も食べなくてはいけないのです。
 健康な体は食事で作られますが、これは人生の目的ではありません。人生を夢と希望を持って最後まで歩いていくための手段だと思います。
 私はピンクの洋服を着てにこにこしていますが、歴としたシニアです。毎日三度食事を摂ることで、この体を維持しているのです。先ほどから「どうぞお座りください」と担当の方たちがおすすめになるのですが、料理の先生というのは立っているのが商売です。この立ち続けるというのが、私のジムに行く代わりの運動になっているのです。

 

子ども時代

 では、私の子ども時代を振り返ってお話ししていきます。どうして料理をすることをお勧めするのかということを、食の環境の変遷とともに説明していきます。これは戦争の始まるころ、1940年の写真です。私は1942年、戦時中に生まれました。戦時中はこういう状況でした。今、共食ということがいわれていますね。国も2013年の6月に文科省が指針にあげて、親子一緒にお食事をとりましょうと一生懸命言っていますが、そんなこと言う必要なかったのです。「お芋さんができたよ」というと、子どももおばあちゃんもお母さんもみんな飛んできました。飛んで来ないことには食べられませんから、そういう時代に生まれて育ってきました。料理をしようにも、材料がなかった時代でもありました。
 ユニセフから小麦粉と脱脂粉乳が提供され、1950年、学校給食が開始されました。これは都会の学校給食の写真です。私は今福津市になっている津屋崎に疎開していたので、そこは半農半漁の町ですからとても給食などありません。小学校6年生の時に八幡に引っ越してはじめて学校給食というものを食べ、小麦粉のパンと脱脂粉乳を飲んで、こういうものを食べさせてもらえるのだと感激しました。この時、ユニセフから出された小麦粉にはリジンとスレオニンのアミノ酸が加えられていました。穀類には含まれていない必須アミノ酸です。総合的なアミノ酸が入っているパンを食べたおかげで、日本の子どもの栄養状態が飛躍的によくなりました。脱脂粉乳も甘いとか鼻をつまんで飲むとかいろいろ言われましたが、これを飲んだおかげで私たちの骨格がしっかりできたのです。
 これは、1950年、疎開先での母と妹との写真です。母は敬虔なクリスチャンでして、教会の活動を一生懸命やっておりました。アメリカから送られた救援物資の布地を引き受けて洋服を縫い、教会のバザーに出品して自分で買っていました。この写真で私と妹が着ている洋服も、アメリカからきた布を仕立ててバザーで購入した洋服です。そういう時代でした。その後、高度成長期の家電ブームが起き、炊事が変りました。私が高校生の時まで木製の氷の冷蔵庫でした。氷屋さんが毎朝配達してくれて、下にたまった水をきちんと捨てないと溢れてきてしまって大変なことになっていました。小さいのであまり物が入らず、ご飯などは到底入れることができません。ご飯は飯かごに入れて高いところに吊るして、風を当てて腐らないように工夫していた時代です。食べる時にクンクンとかいでみて、粘っていると水で洗ってなんとかお茶づけにして食べる。それもあやしくなったら晒しの袋に入れ、たらいの中でもみ洗いして、洗濯のりを作っていました。シーツにつけたりするのですが、つけすぎるとカチカチになっていました。炊飯器は1955年にできました。それから、電子レンジが出てきました。私は電子レンジと顔に書いてあるようで、新幹線のプラットフォームにいても「あなた、あの簡単な!」と声がかかるのです。

 

電子レンジ登場

 戦時中、アメリカでスペンサー博士という方がレーザー光線の研究をしており、いろいろな電波を扱っていました。その中に、とても光線の役には立たない、軍需機密には役に立たないと外した電波がありました。戦後、よく考えてみたら、胸ポケットのチョコレートが柔らかくなっていたのは、その弱い電波のおかげなのではないかと考えたのです。食品の中にはどんなものでも水分を含んでいて、その水分に作用し、水の分子を動かしたのではないかと思って、鉄の箱をつくり、中にモーターを入れて弱い電波を飛ばして見たら、中に入れた食品が熱くなった。こうして、食品の中の水分を動かし、温めるという新しい加熱の器具ができたと発表されました。1945年のことです。この写真は「三歳児の食育料理教室」で使っている簡単な電子レンジです。この電子レンジを使って、魚を煮たり、ご飯を炊いたりして、3歳のお子さんが自分で料理をしていきます。

 

美味しうございます

 さて、昭和39年です。前回の東京オリンピックで、亭主が撮った写真です。円谷選手が最後のゴールに向かって国立競技場に入ってきますが、後ろからヒートリー選手が走ってきてゴール間近で抜かれてしまい、日本中が悲鳴をあげました。この方はその後不遇に見舞われ、選手生活を断念しなくてはならなくなり、まだ20代の若さで亡くなります。その遺書が有名です。「父上様母上様、三日とろろ美味しうございました。干しかき餅、美味しうございました。繁雄兄姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄姉上様、ブドウ酒、りんご美味しうございました。厳兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。最後に、父上様母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。」という遺書なのですが、これを川端康成先生が「この美味しうございましたと、日本人の心の幸せを表す言葉をずっと連ねてある。ここに日本の心がある」とお話しになりました。

 

おばあさんから教わった料理

 同じ39年に私は結婚して、主人の郷里に新婚旅行を兼ねて行きました。母の法事でした。この頃は新婚旅行が法事を兼ねるということもあったのです。女の人は家事労働が当たり前。男の人だけ座敷で座って、お酒を飲んでいるのです。
 私は22歳の花嫁ですが、板の間の台所で、初めて会うおばさんたちと一緒に料理を一生懸命作りました。筑前煮、キュウリもみ、ほうれん草のおひたし、みそ汁、それで魚屋さんがお刺身をつくってくれて、漬物とご飯を出す。このように女の人は一日中、三度三度の食事をつくっていました。これだけで19品目使っています。一日30品目が目標という健康づくりのための食生活の指針が1985年に出されましたが、実は1970年代の食事が健康維持のためによかったということで、食事モデルになったのです。
 私の主人は母親を早くに亡くしていて、まだ42歳だったそうです。母親が生きていたら、どんなに自慢な息子だっただろうとつくづく思いましたが、母親がいないので私に料理を教えてくれたのは徳田トメさんという夫の85歳のおばあさんでした。教えてくれたのは、かぼちゃの煮つけ、野菜のいっぱい入ったおつゆなどです。それから、一年分のお味噌をつくって、塩をきかせて送ってくれました。この味噌でみそ汁をつくって亭主に食べさせなさいということです。
 私は料理の先生になるつもりはなかったのですが、アメリカ人で日本人と結婚して日本にやってきて、日本語は分からないけれど日本人の亭主は日本のものを食べたがっていると困っている若い女の人に、私でよかったらということで、料理を教え始めました。その時に初めて買った本が「味噌汁三百六十五日」。著者は辻嘉一さんという方なのですが、京都の仕出し屋さんです。NHKTVの『きょうの料理』で大変活躍なさった謹厳実直な師匠です。亭主は妹を大学にやっていました。その頃は妹を親代わりに学校にやるということも当たり前でした。私も当たり前と思うのですが、何しろお金がありません。初めて人を教えるとなった時にお手本がいると思い、この本を買いました。「つり鐘の音の余韻が嫋々と尾を引くのに似た後味の良さであり、朝のみそ汁をじっくりと味わう習慣は一家一門の幸福につながる」とありました。おつゆの注ぎ方、作り方、おだしの取り方、お精進のやり方、全部書いてあります。365日分の具が書いてあります。私は必死で丸暗記してレシピをつくり、こういうふうにおつゆを水平に移動してお椀に注ぐとか、予行演習を何度もして、それでアメリカ人の奥さんたち12人に教えていました。私のお料理の先生のスタートはボランティアから始まりました。食で、その方が生きることを加勢するというのが、料理の仕事だろうと思っています。その思いは今も続いています。