第4回「骨髄炎を患い、10回の手術」

朝日新聞(夕刊)人生の贈りもの「料理研究家 村上祥子」(2011.05.16)より転載



--コンテストを足がかりに雑誌にデビューされましたが、数年後に「撤退」されます
いろいろな仕事をいただくようになって、ある週刊誌に私を紹介する記事が掲載されました。
そのとき夫の名前、社名や肩書も出てしまい、上司の目にふれたようです。

日頃私の仕事に理解がある夫が、「ぼくの名前や何かを公にするのは控えてほしい」と。
それは申し訳なかったと、心から思いました。

あちらの仕事がやりづらくなってはね。
ちょうど夫に北九州転勤の辞令が出たことも
あって、東京を離れていったん仕事はやめようと思いました。
せっかく名前が出始めたのに惜しいと言って下さる方もいましたが、仕事はいつかまたできるという気持ちもありました。


--ご自身の体調も芳しくなかったそうですね
高い熱が出るのに原因がわからない。
北九州へ引っ越してからも大学病院を転々としました。
最後に亭主が「虫歯か何かじゃないの」と言って近所の歯医者さんに行き、先生が歯にかぶせてある金冠を外してみたら、古くなった血液がどっと流れ出した。

その後、ようやく骨髄炎とわかりました。
あごの骨に菌が入って軽石状になっている。
歯を抜いて骨を切り開いて削ることになり、4年ぐらいかかって10回の手術をしました。

そんな手術の後、まだ口の中の抜糸もすまないとき、夫がイタリアから届いた生ハムを病院に持ってきたんです。
「黙って食べちゃったらさぞ怒るだろうと思って」と。
夫が帰った後、こっそり食べてみたら、塩気が傷口にしみて痛くて、でもとてもおいしい。
生きてる、という実感です。

公衆電話で夫に「あれを全部持ってきて」と頼んだら、夜中にタクシーを飛ばして持ってきてくれました。
切っては食べ、切っては食べ、夜中じゅう食べましたね。
かめないから、のみ込んで。
これで生き返ったと思いました。

義歯を入れるまで4年間歯がなかったので、介護食には詳しくなりました。
舌とあごでも結構食べられますから、介護食もなるべく普通のもの、おいしいものに作りたいですね。
刻み食、ミキサー食では食べる意欲がわきません。

--闘病のころ、お子さんたちは思春期、受験期でした。村上さん流子育ては
私はあまり子供を構わない。介入しないです。
彼らの部屋が信じられないぐらい散らかっていても、片づけたりしない。
でも厳しいんです。

テレビを置かず、ごはんはみなでそろって、とかね。
そうしたら、子供たちが自分でテレビを買って押し入れに隠して
いたのを、何年も経って初めて気がつきました。

親が寝静まってから見ていたらしい。立派なものですね。
ちゃんと俗っぽく成長して、よかったです。
(5.ちゃんと食べてちゃんと生きる へ続く)